memo marqueeが本当に実用されているサイトの技術のアドバイスをしなきゃいけないのだが、どうしようか・・
彼ら、テキストサイトというところにいた狂った人間というのはこういうものだったのかもしれない。特にinfoseekが閉鎖し失われたインターネット・アーカイブを見れない人間にとっては狂気かもしれない。ただ、何かの狂気感は同じような感じかもしれない。ブランディングされていない、生身の人間が苦しんで書いたテキストがそこにはあったきがした。hannkakueisuuのような人間がたくさんいた気がしたし、『電気サーカス』を書いた人もそうだろう。
今のインターネットってなんなんだろう?大人が来るって「ええじゃないか」といってこれを作ったら、確かに何かしらの諦めはつく。ただ、それは救われたのだろうか。
歌舞伎町のナンバーワンのホストになろうと思っていた - はてな村定点観測所
コミュ障はなかなか治らない。妻と会話するのも苦手で、妻には私に話しかける時は声ではなくチャットで声を掛けてほしいとお願いしました。リアルな会話は苦手なのです。黒い画面と話すのが好きです。
リアルから インターネットへコミュニケーションを移行し、伴侶である妻との会話すらもチャットでおこない、多くの身体的感覚を彼は工学的なアーキテクチャであるインターネットへと漬けた
その結果が、これだ。
はてなブックマーク・ユーザー会オフラインミーティング(07/12) - はてブスペース
インターネットは今も昔も、手段でしかなかったし、それはその通りであるだろう。目的もなくふらふらと見ているうちに、目につく狂気にやられてしまったのだと思う。ここ、インターネットは薬にも毒にもなる。見るものと、関わるもの次第だ。
次いで、彼らについて、
増殖を続けるアーキテクチャは、アートの神秘性を認めない。そこでは、すべてが可視化され、分類され、操作可能となる。
内面などない。知性も感性も、すべてはアーキテクチャ上で、システマチックに組み立てられてゆく。
人間の内面は、アーキテクチャによる工学的な介入によって蒸発する。
カオス*ラウンジはインターネットという空間を確かにインスタレーションしていった。価値のあるなしは、後の世に任せよう。ただ、そこに残したものは何だったかというと、彼らがコピーしていった創作物、それらを作った「二次創作とは」何だったのか、あるいは、私あるいは彼、彼女らが見ている「インターネット」は、何だったのか、どうあるべきなのか。
アートの神秘性は失われてはいないし、人間の物語性は語り継がれている。釣り師や、ブランディングというもやがありつつも、ナマの人間はそこにいいる。
『インターネットを捨て、街に出よ』と思った
それこそが、自分自身にも言うべきことであり、これを見ている誰かにも伝えなければいけないのだと思う。
完全には捨てなくてもいい。だが、距離を置こう。